協会の父と言われる田中直治先生。猿木宗那先生のもとに住み込んで稽古を積んだというだけあって、泳ぎは相当達者であったそうですが、とにかく泳ぐのがお好きだったようで、世間では「のぼせもん」と言われるような逸話が残っております。
1909年(明治42年)大村の臼島游泳場の開場式に招かれた際、田中先生が初段十名ほどを引率して出かけられたそうです。線路沿いに歩いて行ったというのも驚きですが(昔の人は健脚ですね)、道の途中で川を見かけると、とりあえず水に入って浮き身の練習をして、また歩き出したそうです。長与の川では越中褌で泳ぎ、乾かす間が惜しいので背中にかけて褌を風にたなびかせながら長与の峠を越えたそうです。袴の下は何もなし、ノーパンならぬノーフンだったのでしょうか。
ある年の正月のこと、田中直治先生、熊井定男先生、片岡次郎先生、田中直一先生の四人で鳴滝の遠矢三次師範のお宅を訪問されたそうです。寒い年で、庭の池には氷がはっていたのですが、話が游ぎのことになると「では、さっそく」ということになり、池の氷を割って池に入り浮き身の研究をしたそうです。
熊本の先師祭に招かれて田中先生以下十二名が参加した時のことです。この年の先師祭は球磨川(人吉と思われます)が会場だったそうですが、先師祭からの帰途、球磨川を下り三角に着いたのが夜の10時頃だったのですが、田中先生は「島原まで泳ごう」と言われ、船頭を叩き起こし、酒代をはずんで船を出させました。出発したのは11時頃。月のない真っ暗な夜だったそうです。到着したのは朝7時を過ぎていたそうですから、かれこれ8時間の遠泳でした。
※闇夜の遠泳などもってのほかですが、遠泳でなくても夜の海は危険です。ダツに襲われることもあります。決して真似しないでください。 |