古閑師範のコラム

HOME > 小堀流踏水術 > 古閑師範のコラム

 ここでは、小堀流踏水術十一代師範の古閑忠夫先生が2007年(平成19年)10月から12月にかけて熊本日日新聞の『きょうの発言』というコーナーに書かれたコラムの中から、小堀流踏水術に関するものを、先生のご厚意で掲載させて頂きました。

 

 古びない日本泳法2007/10/05
 今夏八月に、第五十二回日本泳法大会が、全国十二流派の選手・競技役員・関係者約千名出場、参加のもと、日本水泳連盟主催・熊本県水泳協会主管でアクアドームくまもとにおいて開催された。
 熊本で、この大会が開かれるのは初めてのことで、関係者の一人として大変うれしく、最大限の協力をさせていただいた。  日本泳法と言われるものは、一般の方にはなじみの少ないものであるが、戦国時代渡河などの折に使われた、游泳[ゆうえい]水馬[すいば]・操船などの技術が、江戸時代に主に游泳術のみが流派をなしたものが、そのように呼ばれている。
 日本水泳連盟では正しい伝統と由緒を持つ十二流派を日本泳法として公認している。熊本発祥の小堀流踏水術もその一つである。よく「古流の泳ぎですか」と言われることがあるが、技術的にも科学的で、指導や教育面でも長い年月の経験によって積み上げられたもので優れているように思う。決して古びているわけではない。
 例えば、横泳ぎの先手の[]き方が、競泳のクロールのものと全く同じであることが証明されている。  オリンピック選手でシンクロナイズドスイミング競技の奥野、立花、武田選手などは、初めは京都で小堀流踏水術を習っていて、その後競技に移って活躍されたのである。小谷選手も日本泳法出身と聞いている。
 日本水泳運盟も競泳、飛び込み、水球、シンクロナイズドスイミング、オープンウォータースイミング(海上に設けられた十−二十キロの距離の競泳競技で将来オリンピック競技になる予定)と日本泳法の六部門で構成されているのである。その中で日本泳法委員会が、日本泳法の普及と発展ならびに、水泳の生涯教育としての活動を行っている。

 

 おぼれない泳ぎ2007/10/12
 日本泳法の目的とするところは何であろうか。
 それは、いかなる状況でもおぼれないことである。言葉を換えれば、流派によって発祥したところが川か海の違いはあっても、水から身を守ることである。
 このことは、決まった泳形で、決められた距離をいかに速く泳ぐかを目的とする競泳と基本的に違っているのである。
 以前ラジオで、オリンピック競泳選手だった方が「世界選手権の後、海水浴に行っておぼれかかって大変でした」と話されていたことがあった。
 また、岩崎恭子選手が、帰国後の祝賀会で、日本泳法委員長から「海で泳げますか」と尋ねられて「コースもターンする所もないので泳げません」と真面目[まじめ]に答えてくれたと聞いている。
 決して、日本泳法と競泳の優劣を言っているのではない。自然の水(川、海など)に対する[およぎ]と、人工の水(プール)での[およぎ]という違いでもある。鍛えられた競泳選手の泳力は、目を見張るものがある。しかし目的が違うといろんなことが起こるということである。
 先のオリンッピック選手は、現在子供の水泳教育に当たられておられるし、岩崎恭子さんは、毎年行われている鹿児島の錦江湾遠泳に、参加されたことがあるとも聞いている。
 日本泳法の練習は、全国的に現在プールで行っている所がほとんどである。
 泳げないものを指導するのには、プールは適していると思う。しかし中途半端な深さのものは使いづらい。
 自然の川や海のように、手がつく深さと、背の立たないものがほしい。ある程度泳げるようになったら、本来の日本泳法が生かされる川や海で泳ぎ、その楽しさを知ってもらいたい。

 

 家康と日本泳法2007/10/19
 徳川家康が、彼の子どもたちに「游泳[ゆうえい]と乗馬は、自らよく修練せよ」と言っていたと伝えられている。このことは、他のことであればひとに代わってもらえるが、この二つは、将軍といえどもそれができないからとのことである。本人も七十歳過ぎても、[およ]いだり馬に乗ったりして、楽しんでいたと言われる。
 現存の日本泳法十二流の中で、半数ほどが徳川家に関係しているのも家康の言葉の影響かもしれない。
 武人の心得として「一足、二水、三胆、四芸」という教訓がある。第一に健脚でなければならない。第二におよぎが達者であること、第三に胆力を養う、最後に武芸を修練することとの意味である。
 武芸(弓・馬・剣・槍など)に先行すべき武人としての基本的条件が、健脚と水練(およぎのことの別名)であり、武芸十八般のなかにいれるべきでなく、それ以上の大切なことであったようである。
 現代においても、およげると言うことは、人生の中で一つの大きな価値を持つように思われる。
 学校教育の中で、体育の一つとしておよぎを教えられている。しかしその現状は、四十人の生徒に指導の先生が一人というのが普通であろう。
 小堀流踏水術の伝書に、「このようなものを教える時は、十人を限度とする。もし二十人の時は、十人を岸に上げ、見取り稽古[けいこ]をさせ、交代させて指導を行う」とのことが書かれている。
 子供の時代に、本来のおぼれない楽しいおよぎを身につけるためには、子供のおよぎのレベルに合わせて指導できるように、生徒二十人に最低一人の先生が、確保できないものであろうか。
 そして、現在ほとんど行われていない、臨海学校の復活をお願いしたい。

 

 日本泳法のおよぎ方2007/10/26
 日本泳法のおよぎ方は、どのようなものであろうか。
 前回までに何度か游泳[ゆうえい]という言葉を使ってきた。それについて次のような話を聞いている。
 小堀平七(小堀流踏水術七代師範)は、学習院ができるとまもなく游泳の師範として迎えられた。明冶の終わりに院長となった乃木大将が、ある時 「水泳部」と書いたのを、平七が、「水」の字にバツを引き、「游」と直し、院長に返した。
 それで院長が「どういう意味か」と尋ねたら、「游は、浮かび行くことであり、泳は、水中を行くことで、自分が教えるのは、水泳というものでないので游泳部としていただきたい」と返事をした。院長も「わかった。そうしよう」と游泳部とその後なおされたとのことであった。
 游泳の体形には、平体[へいたい]横体[おうたい]、斜横体、立体に分けられる。平体は、水面に俯状[ふじょう]、または、仰臥[ぎょうが]した体形。横体は、身体をまっすぐにし、水面に横臥[おうが]した体形。斜横体は、平体と横体の中間の体形。立体は、身体を水面に垂直に立てた体形。
 足の動作は、横体、斜横体で「扇足[あおりあし]」「逆扇足」、平体で「[かえる]足」、立体で「踏足」「巻足」、「扇足」などがある。手の動作も「[かき]手」「抜手」「手繰[たぐり]手」などがある。
 当方の講習に、小学四、五年生で水に顔もよくつけることができない、もちろん泳げない子供が時々参加する。これは、学校では、クロールなどの四泳法を主に指導していて、それがうまくできない子供である。
 十年ほど前から、ドルフィン平泳ぎという、初心者向けのおよぎが提唱されて、いくつかの学校で取り入れられている。およぎの形でなくて、楽しく泳げるようになることが、本来の水泳教育であり、日本泳法もその一つでありたい。

 

 日本泳法の各流派2007/11/02
全国に、日本泳法の愛好者は、数万人ほどである。
 まず、九州以外の九流派の発祥地、特徴、現在どこで伝承されているのかを紹介したいと思う。
 関東地方に発達した流派としては、水戸藩校弘道舘武術として那珂川で伝習された水府流水術、水府流から出て諸流の長所を取り入れて明冶の初めに流派となった水府流太田派、江戸幕府御船手頭向井家に相伝されてきた「お船手泳ぎ」とも称される向井流水法がある。
 前二流は、あおり足横体の泳ぎ。向井流は、あおり足斜横体の泳ぎを主体としている。太田派は東京高等師範学校で指導したことから、学校を通じて全国広く伝播[でんぱ]游泳[ゆうえい]人ロが一番多い。向井流は、北海道、会津でも盛んである。
 紀伊・伊勢に発達した流派としては、紀州三派と言われる紀州藩の小池、岩倉、能島流。津の藤堂藩の観海流がある。蛙足[かえるあし]平体の泳ぎを主体としているが、紀州各派は手・腕で水を[]き分け、水上より体を飛び出させる泳ぎがあり、観海流は大勢でまとまって長い距離を泳ぐ沖渡[おきわたり]に特徴がある。小池、能島流は主に大阪、岩倉流は和歌山、観海流は津で行われている。
 中国、四国では、讃岐高松藩の水任流、伊予大洲から松山、中国の津山藩と伝承された神伝流がある。水任流は逆あおり足横体、神伝流は、あおり足横体の泳ぎを主体とするが、水府流の横泳ぎとは顔の向きが異なる。
 水任流は高松で、神伝流は中国、四国、関東を中心に行われていて、二番目に泳ぐ人が多い。
 各流派の人と話していると、都会のかたが、日本泳法に対する関心が深いように感じる。これは、文化に対する考え方の違いか、精神的なゆとりなのかとも考える。

 

 九州の日本泳法2007/11/09
 九州地方に発達した日本泳法の残り三流派について、発祥地、特徴、現在どこで伝承されているのかを紹介したいと思う。
 薩摩島津藩の黒田家のおよぎ神統流、豊後臼杵藩の山内流、肥後細川藩時習館の武芸として伝習された小堀流踏水術がある。
 神統流はあおり足・蛙足平体の泳ぎを基本とし、「捨」「抜」「差」の業におよぎを分けている。五百年ほどの歴史を持っているが、藩のおよぎとして伝承されなかったために継承に苦労されて活動が停滞し、存続の危機もあった。近年復活の機運が高まり、活動が再開されて、先月にそのお祝いが鹿児島で開かれ、游泳[ゆうえい]披露が行われたことは、日本泳法関係者として大変うれしいことであった。
 山内流はあおり足斜横体を主体とし継扇足[つぎあおりあし]の立泳で、八畳を超える大旗振りが有名である。現在は臼杵市の海岸を練習場として、臼杵市教育委員会がその講習会事業を行っている。これは他の流派には見られないことである。小堀流踏水術は踏蹴[ふみけり]足の手繰游[たぐりおよぎ]を基本とし、踏足による立游を特技としている。熊本を発祥の地とし、明冶維新後、学習院、京都、長崎に選ばれて伝えられた。これはおよぎと指導法の優秀さによると思われる。近年青森県弘前市でも行われているが、最後の藩主が細川家より入られたためである。
 全国で数千人が小堀流踏水術を楽しんでおられるが、本家の熊本は、百数十人の会員である。講習会場や練習場、指導者の確保などいろいろ問題はあるが、この優れたおよぎと教育方法を持ったものを普及発展させたいものである。近年、その良さを知ってイギリス、アメリカ、イタリアなどから学びに来られている。身近にある優れたものに気付かないのは、熊本人の特質かもしれない。

 

 肥後「およぎ」系譜2007/11/16
 昭和三十年代、「水泳熊本」と言われ、オリンッピックでのメダリストや出場者を出していた。これは、水に親しむ環境が熊本に多かったことと、水泳への関心が強かったことによると思われる。
 江戸時代、熊本(肥後)での游泳[ゆうえい]はどのようであったかを見ていきたい。
 細川家三代(肥後細川家初代)忠利公は、小倉から熊本に移封された翌年の一六三三年、江戸から甲州浪人河井半兵衛友明を[およぎ]の師範として迎え、白川八幡淵で藩士のおよぎの指導にあたらせた。以来歴代の藩主は、およぎを武用として奨励し、藩主自らも花畑(現花畑公園のところで、藩主の屋敷跡)に深さ一丈余り(約三メートル)の広い池を掘らせて白川から水を引き、およぎを修行した。お姫様も游ぎをされていた記録があり細川家は、およぎに対しての重要性と必要性を考えられていたと思われる。
一七00年ごろ村岡伊太夫政文によっておよぎがまとめられ白川天神淵で、上士の指導にあたった。その次子小堀長順常春が小堀流踏水術(当時は游とのみ呼ばれていた)初代師範となり、藩校時習館が創設されてからは、その正課となった。
 藩主重賢公のすすめもあり、「踏水[けつ]」 「水馬千金篇」を一七五八年に大阪で出版した。これは、水泳専門書としては、日本で最古の刊行物で当時のべストセラーとなった。踏水訣は、黒船来航後少し書き換え「水練早合点」として復刻出版された。五代師範小堀水翁のときには、他藩からのおよぎの留学生も含め、門弟一万人といわれた。
 このように、肥後熊本では地形や風土と相まって、他に比べ非常におよぎが盛んで、それが近代競泳にも影響を与えたのかもしれない。しかし現在は、他のスポーツの影響か、水泳人口が少ないと思う。

 

 小堀流踏水術を後世へ2007/11/30
 「小堀流踏水術をご存じですか」と熊本の人に尋ねると、「[よろい]を着けて泳ぐおよぎですか」とか「忍者のおよぎでしょう」と答えられる方が半分くらいで、「それは何ですか」と言われる方もおられる。昭和の初期までは、熊本市内の旧制中学などから、夏の水泳の指導を要請されて、小堀流踏水術の稽古[けいこ]場より講師を派遣していたと聞いている。近ごろの小堀流踏水術の報道も、特別なおよぎとしてニュースになっている。
 確かに競泳とは違い、小堀流踏水術は、武土たちが水中や水面上で自由に活動し、戦闘や作業を行うために何百年の間工夫された実用泳法に発している。いろいろな[およぎ]は、最小の力で最大の効果をあらわすように作られ、クロールとブレストのように全然別種のものでなく、一つのおよぎを修練することによって他のおよぎを半分習ったことになるようになっている。そして、実用の游(基本游)として、浅い瀬を下る游、長距離をおよぐ游、一刻も早く目的地に達するための游や両手を自由にするための游などが考案された。
 しかし、これらの游だけでは楽しみが少ないので、基本游の修練にもなる見せるための游(芸游)を発展させて、若者も老人も体力に応じ一生を通じておよぎ、その中 で精神を[みが]くことにもなるように整えられたのである。御前游は芸游の代表的もので、殿様の前で游いだのでこの名があり、一番優雅な游と言われる。甲冑[かっちゅう]を着て游ぐと甲冑御前游となる。特に小堀流踏水術は、手足体の動きを一致させる「三勢」と呼ぶ動作を行う。これは、「なんば」と言われる古武術に見られるものであり、立游は踏足による。これらは他流では決してみられない非常に優れた独自の技法で、ぜひ後世 に伝えなくてはならないものだと思う。

 

 洪水およぎ2007/12/07
 以前神戸の有名な洋菓子店の社長M氏より、どこから聞かれたのか小堀流踏水術の教えについて、社員教育に役立てたいので詳しく知らせていただきたい」との連絡を受けた。それで、小堀水翁五代師範があらわした「水学行道十ヶ条」をお送りしたことがあった。
 これは、小堀流踏水術を修行する者が、心掛けなければならないことを示したものである。その第一ヶ条は、「正直を宗とし実志を立てること」となっている。
 最近、名のある食品会社のいろいろなごまかしを知るにつけ、創業のときの正直さをなくし、利益だけを追求しているところがいかに多いか、嘆かわしいことである。M氏の会社の健全な発展と老舖として歴史は、全然違う分野からでも、よいものがあれば、会社の指針として取り入れる柔軟な考えにあるようである。小堀流踏水術の教えも、何かのお役にたてたのかもしれない。
 小堀流踏水術では、戦前までは「洪水およぎ」と言われることが行われていた。これは、師範がある技量に達したと認めた者に対して、増水した川を横切って対岸の目的地までおよがせるものである。このことは、まずどこからおよぎ出せば自分の技量で対岸の思うところにつくことができるかを考え、今まで修行してきたおよぎを増水した流れの中でいかに使うか役立てるかの体得の場であり、「入り場[あが]り場初に見斗[みと]ること」と述べられていることを実感したと聞いている。
 昔は目録相伝の要件でもあったが、現在ではこのようなことはできない。しかし、「明白のことをなし欲心を離ること」などは現在でも学ぶことが多い内容である。およぎを通じて子供たちを育て、これらの教えを実践できる社会人としていくことが、小堀流踏水術伝承の意義と思う。

 

 「面授面受」の教え2007/12/14
 小堀流踏水術では海洋訓練の一環として、遠泳を毎年行っている。日本泳法の遠泳は、ある地点から目的の地点へ、泳者全員が協力して完泳することに特徴がある。およぎが速いものは少し抑え、遅いものは頑張って隊列を崩さぬようにして行くのである。
 しかし一番重要なことは、日ごろの子供たちに対する練習指導の中にある。日本泳法を武道の一つと考えたとき、相手は人でなく水であり、常に真剣勝負を行っているのと同じで一瞬の油断で命を失う。監視しているときは全員を視野に入れて、呼ばれても返事はしてもよいが、振り向いてはいけない。
 初心者には水に対する恐怖感を与えないようにし、およげるようになっては、水を侮らないようにする。一人一人が違うのであるから、それぞれに合う教え方を考え、各人に自らできるようになる喜びを感じさせ(自得の妙)、およぎ終わってからもいかなる状況にも対応できる体勢と心構え(残心)を持つようにさせるのである。遠泳で「疲れておよげない」と訴える子供に対して「もう少し頑張れ」と励ますか、付添船に上げるかは、日ごろの練習時に把握しているその子の性格、体力、技量による。上陸が近まったときが一番大切で、砂浜に腹がつくまでおよがせないと事故が起こることが多い。これらのことは、「面授面受」と言われる教育方法でしかできない。
 十数年前、熊本の高校の校長が「ぜひ、わが校の行事で遠泳を実施したいのでやり方をお教えください」と尋ねてこられた。「数日、遠泳の練習のあり方をご覧ください」と申し上げて、来ていただいた。「短期間の学校の水泳授業では、遠泳実施はむりである」と言われて帰られた。教育は一朝一夕にはできないものである。