吉田高穂
2005年(平成17年)5月13日付 長崎新聞掲載
明治、大正、昭和、平成と四代にわたり、ねずみ島の父と言われたれた父親の田中直治師(第六代主任師範)と父子二代にわたり、日本泳法小堀流踏水術の伝承と青少年育成と市民皆泳の理想を守り、献身的に尽力された功績は計り知れないし、田中名誉師範なしでは、長崎游泳協会の今日の発展はなかったといえる。
いつも人間味あふれる微笑と温厚で誠実なお人柄には、教師をはじめ子どもたちから敬慕され、その存在はあまりにも大きかった。
小さいときから父上に連れられての"ねずみ島通い"。泳ぎを覚えたのは六歳の時。いつの間にか自分が指導する立場になっていたと聞いたことがある。
協会も幾多の試練と困難を乗り越え現在に至っているが、創立以来最大の苦境に直面したのが、昭和47(1972)年、第二次長崎外港計画が発麦され、協会発祥の地であり、七十年間長崎市民に親しまれた母なる道場「ねずみ島」が埋め立てられることになり、やむなく閉鎖を余儀なくされたことでした。「別離の情去り難くも断腸の思いで訣別に至った」と当時の心境を九十周年誌に語られている。
海から陸へと移った協会は、「長崎市民総合プール」を道場に長崎市教育委員会主催の「夏季水泳教室」の運営指導の委託を受け、新たな歴史のスタ―トとなったが、会長をはじめ心配していたのが、どれはど申し込みがあるかだった。何とその心配をよそに、初年度六干人以上の応募があり抽選となったが、一人でも多く受講させたいために、苦肉の策としてA班(月、水、金曜)、B班(火、木、土曜)の隔日制での実施となった。
プールにあふれる元気はつらつたる子どもたらの姿に歴史的転換の苦労も吹き飛ぶ思いであった、と喜びを語っている。
伝統の精神は揺らぐことなく、多くの市民に守られ継承されて、市民総合プールで早くも三十二年の歳月が流れたが、会長として近年での喜びといえば、念願であった三年前の協会創立百周年を迎えたことでした。人生で最高の喜びと言わんばかりに白い歯をのぞかせ、長生きしてよかったとほほ笑むあの時の満足そうな笑顔は今でも忘れられない。
昨年の秋、協会も特定非営利活動法人(NPO法人)の法人資格を取得したのが会長としての最後の務めとなった。
告別式の日、お棺には最愛の妻サダ夫人をはじめ、ご家族の意向によって長年愛用された師範の水泳帽と木札(会員証)とホイッスルが納められ、物故師弟が待つ、遠泳の旅路にたたれたのでした。合掌。